➖キリスト教の葬儀と信仰➖ 「誰が天国に迎え入れられるのか」
真の平安と慰めはどこから?
先日、ご家族を天に見送られた方とお話しする機会がありました。その方は、「父が地上の歩みを終えた後、どこに行ったのかを知っているので平安です」と、穏やかに語っておられました。
もちろん、地上での別れの寂しさはあります。しかし、神を信じ、天に迎え入れられているという確信は、何にも代えがたい慰めであると感じました。
信仰の確信が持てないままの別れ
一方で、熱心に伝道を続けながらも、ついに「信じます」という言葉を聞くことができないまま、 ご家族との別れを迎える方もおられます。
「この人は救われたのだろうか」「天国に行ったのだろうか」 残されたご家族が葛藤を抱えるお気持ちは、計り知れません。
最後の瞬間に起こるかもしれないこと
以前、親しい友人のお母様が末期のがんを患っておられました。その方はかつて教会に通っておられましたが、長い間離れておられ、「人にはそれぞれ自分なりの神がいて、それぞれの信じ方でいいのよ」と話され、教会に戻ることはありませんでした。
病状が進んだ頃、お会いする機会がありました。心の中で主に助けを祈り、「お祈りしてもよろしいですか」とお尋ねしたところ、「うん」と頷いてくださいました。
手を置いて祈らせていただいた後、「ありがとう」と言ってくださり、ひとまず安堵しましたが、その祈りをどのように受け止めてくださったのかは分かりませんでした。
その数日後、不思議な夢を見ました。そのお母様が現れ、「やっぱりイエスさまだったわ」と語られたのです。
目が覚めたとき、イエス様がその方に語りかけ、招いてくださったのではないかと思いました。もちろん、それは私自身の願いが見せた夢だったのかもしれません。
それでも、意識が薄れていくその時に、キリストが呼びかけ、その御手を取ることがあるのではないかと感じさせられました。
やがてその方は召されましたが、最後の瞬間がどのようであったのかは分かりません。ただ、キリストの御手を掴んでいてほしいと心から願いました。
聖書は「誰が天に上るか」を問うなと語る
聖書は次のように語っています。
「あなたは心の中で、『だれが天に上るだろうか』と言ってはいけない。」(ローマ人への手紙10章6節)
私たちには、誰が天国に入ったのかを知ることはできません。それは神のご領域であり、私たちに判断が委ねられているものではないのです。
十字架上の強盗に見る「最後の救い」
このことを思うとき、イエス・キリストの隣で十字架につけられた強盗のことを思い出します。
一人は最後までイエスをののしり続けましたが、もう一人は十字架の上でイエスの姿を見、その愛に触れ、こう語りました。「イエス様。あなたの御国にお着きになるときには、私を思い出してください。」
するとイエスは言われました。
「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(ルカの福音書23章43節)
そのやり取りは、周囲の誰も知ることはできませんでした。家族や人々からすれば、とても信じがたいことだったかもしれません。しかし、最後の最後にイエス・キリストを主と認めるなら、神はその人を喜んで受け入れてくださるのです。
私たちにできること―福音を語り祈り続ける
誰が天国に迎え入れられたのか、それは私たちには分かりません。
しかし願わくは、最後の最後にキリストの御手を掴んでほしい。そのために、私たちは福音を語り続ける必要があるのではないでしょうか。
「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。」(テモテへの手紙第二4章2節)
一方で先に救われた私たち自身も、最後まで信仰の馳せ場を走り通すことの難しさをも憶えます。
「私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競争を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(へブル人への手紙 12章1節)
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