➖一粒の麦➖ キリスト教の葬儀と信仰
一粒の麦が死ぬとき、いのちが芽吹く
ヨハネの福音書12章24節を通して思う召天の意味
「まことに、まことに、あなたがたに言います。一粒の麦が地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死んだなら豊かに実を結びます。」
(ヨハネの福音書12章24節)
イエス・キリストは、ご自身のいのちが一粒の麦のように地にまかれ、やがて多くの実を結ぶことを語られました。それは、十字架の死と復活を通して、無数の人々に「救い」と「新しいいのち」がもたらされることを示しています。
このたとえは、ただイエスの歩みだけでなく、愛する人を天に送るときの私たちの心にも寄り添う言葉です。別れの悲しみの中にも、やがて豊かな実りと希望が芽生える――その約束を思うとき、信じる者の心に静かな慰めが広がります。
死を通して現れる神のいのち
葬儀の場では、遺された者としての悲しみがあふれます。棺の中にいる大切な方の姿を前に、「これで終わってしまったのだろうか」と感じる瞬間もあるでしょう。
けれども聖書は、死を「終わり」とは語りません。麦の粒が地に落ちて、しばらく姿を消すように見えても、やがて新しい芽を出し豊かな実を結ぶように、神の子らのいのちは、見える死を通して天のいのちへと移されるのです。召天は痛みを伴いますが、それは神が新しいいのちを芽吹かせる恵みの過程でもあります。
故人の生き方に結ばれた実をみつめて
私たちは葬儀の場で、故人がどのように信仰をもって、人生を歩み抜かれたのかを静かに振り返ります。日々の祈り、家族との深い絆、周囲への優しさ――それらはまさに、信仰が与える豊かな実を結んだ人生の証です。
別れの瞬間には胸が張り裂ける思いに包まれますが、振り返るうちに、「この方の歩みは、すでに次のいのちを育んでいる」と気づかされることがあります。
あるクリスチャンのご葬儀の際、天に召された方の信仰の証しが語られました。その言葉に心を動かされたご親族の一人が、「自分もいつか、そのような信仰をもって歩みたい」と話されました。そこにもまた、静かに実を結ぶいのちの姿がありました。
希望の光としての召天
イエスの十字架がいのちへの扉となったように、神を信じる方の召天は神の国への門出です。地上での務めを終えた方の魂は、神の御手に抱かれ、永遠のいのちの中で生かされます。だからこそ、キリスト教葬儀は「希望の礼拝」と呼ばれます。悲しみの中にも、そこに確かな希望がしめされている――それは、主イエスが「死を越えた命」を約束してくださったからです。
主が与え、主が取られる。そのすべての中に神の愛と計画があることを信じ、私たちはその神への感謝と信頼をもって、愛する方を送り出していきたいと思わされます。
聖書引用:『聖書 新改訳2017©2017 新日本聖書刊行会』より引用 本文・解釈・実務的視点:筆者によるオリジナル執筆

