➖みことばから葬儀を考える⑤➖ キリスト教の葬儀と信仰
みことばから葬儀を考える
私たちの弱さに同情できる方
コロナ禍を経て、華美で仰々しい葬儀が見直される傾向にあるのは、歓迎すべきことだと思います。 だからこそ、わたしたちは より内容へと目を向け、神が喜ばれる葬儀とは何かを祈り求めます。
へブル人への手紙4章15節より
私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
私たちクリスチャンは、地上の歩みが終わり死を迎えた時、天の御国に迎え入れられる約束があり、それが希望です。
でもいざ残された日々が少ないと感じた時、穏やかにしていられるでしょうか。年を重ねて、弱さを感じる時、余命が少ない事を知らされた時、不安や恐れを抱くのは、クリスチャンであっても変わらないと思いますし、だから信仰が弱いとも思いません。むしろその事を正直に神に祈り、聖霊に助けられて神が平安を与えて下さるのだと思います。
マルコによる福音書14章35~36節
それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
とても慰められる聖書の箇所です。十字架にかかり死に渡される直前、ゲッセマネで主は祈りました。
神の子なら、恐れずに十字架に進んでいかれるはず、と考えてもおかしくないのです。しかしながら、イエスキリストは人となり、私たちと同じ肉体を着て来られました。だからこの肉体的、精神的、又霊的苦痛がどれ程のものかわかり、苦悶し、神に取りのけて下さいと祈られたのです。その上で、神の御心に従われたのです。
私たちに仕えてくださるイエス・キリストは、罪は犯されませんでしたが、私たちが体験する試みに会われたからこそ、弱さに同情して下さるのです。だからこそ、死を感じ恐れや不安がくる事も同情し、その上で慰めを与え、天の御国の約束を思い起こさせ、平安を与えて下さるのです。
📖 過去のシリーズ記事もぜひご覧ください
🔹 第1弾:聖書に学ぶ葬儀①
🔹 第2弾:聖書に学ぶ葬儀②
🔹 第3弾:聖書に学ぶ葬儀③ 🔹 第4弾:聖書に学ぶ葬儀④
グレースセレモニーは、事前のご相談から、ご依頼主様と同じキリストを信じる者として、共に祈り準備を重ねて参ります。葬儀を通して、召された方の信仰の歩みから、参列者お一人お一人に福音を分かち合い、キリストを紹介する場として、召された方の思いを大切にしつつ、一都三県でのキリスト教葬儀を、最大限お手伝いさせて頂ければと願っております。
