➖証し集③➖親族の地上での歩みを見送り(神奈川県E・Tさん)
この世の最後の歩みを振り返り
「証し」を通して神の「恵み」を分かち合う
今回のシリーズでは、家族など近しい方の地上の最後の歩みを振り返り、神を信じて地上の最後を迎えるとはどのようなことかを「証し」を通して分かち合いたいと思っています。
ヨハネの福音書 3章16節
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」
「愛し難い義理の伯父との、思いがけない最後の三週間」
伯父の兄弟はそれぞれ子どもを残すことなく早逝し、また伯父も20年前に亡くした伯母との間に、子どもはなかったので、近親の身寄りがない人でした。性格の明るかった伯母の死後に、それまで気付かなかった、伯父の皮肉ばかり言う偏屈な性格が露呈しました。また伯父は、お金に執着するようになり、私は伯父と付き合うことが嫌で避けていました。ゆえに伯父の救いについては、季節の贈り物をする前に、少し祈る程度の関係でした。
伯父のいとこを名乗る女性から急に電話があり、伯父が4日前に、家で倒れているところを発見され救急搬送、しかも末期の癌で、余命1−3ヶ月であることが分かったと連絡がありました。
マンションの管理組合が警察立ち会いのもと、鍵を壊して家に入り、救急車を呼んだ、ということでしたが、その際に伯父は「自分には家族も身寄りもいない」と言い張り、2時間救急車に乗車することを拒否、そして入院に際してやっと、今回連絡をくれた従姉妹に連絡がいったとのことでした。
伯父は入院するまで、自分がまさか癌、しかも末期癌と知らず、入院後の検査で分かり本人に伝えられていました。私は伯父にお金目当てと思われて、嫌な思いをするのでは、と面会が憂鬱で怖かったのですが、どうしたらよいのか、まず、神に祈りました。
すると「今回、伯父の人生の末期に連絡がきたのは偶然ではない。神はすべての人が救われることを望んでいる。」そしてヨハネの福音書 3章16節を思い出し、教会の牧者や姉妹にも祈ってもらいました。
伯父は相変わらず皮肉な言葉を、お世話になっている従姉妹ご夫妻にかけ、そしてお金にも執着していて、愛し難い存在のままでした。けれども、私には持ち合わせていない憐れみの気持ちが与えられ、「こんなに孤独で偏屈で、愛し難い伯父のためにキリストは命をかけられた」と胸にせまり、福音を分かち合うことができました。
伯父はいつになく、真剣に話を聞いて「神様がいるなら、見せてほしい」と言い、祈ることも許可してくれたので、手を置いて、神が見えるようにしてほしいこと、苦痛を癒してほしいことを祈り、また伯父にも神ならば、苦痛を和らげ、平安もくれるから祈ってみてほしいことを伝えて、病室を後にしました。
今までも伯父には、トラクトや三浦綾子さんの本を送ったことはありましたが、福音を真っ直ぐに伝えたのは初めてでした。次に病室を訪れると、輸血をした後で少し元気が回復していました。私は「その後、祈ってみた?どう?」と聞くと、「まだよく分からないよ。(神に)聞いてみたけど」という返事でした。
珍しく伯父が、寝たきりで言葉を発することのできない、長期入院中の私の母の様子を聞いてきました。母は倒れる少し前にキリストによって救われていたので、母の救われた証しと、こんな状態でも讃美や祈りの中で、霊の深い交流を持つことができていて、毎週面会で励まし合っていると伝えることができました。
伯父が「あんたのお母さんは幸せだな。」というので、神との関係が欲しければ、神様に願えばいただけると伝えました。それでも「分からない」という返答でした。分かるように祈ろう、というと頷いたので、手を置いて祈りました。
3回目の面会はそれから10日ほど空いてしまいました。従姉妹ご夫妻からは、「だいぶ弱ってきて意識も朦朧としてきた」と聞いていましたので、いよいよ死期が目の前まで近づいているのを感じ、「時間がない。サタンもいるし、邪魔するかも」と伯父の救いに対して、焦りの気持ちが出てきました。
その日は、1年前に洗礼を受けたばかりの、13歳の息子を伴って行くことにしました。病院へ向かう車中、私の焦りを彼に分かち合うと、「一緒に救いを祈ろう。悪に立ち向かったら、サタンは逃げ去るって聖書に書いてあるよね」と日曜学校の暗唱聖句だったことのある、御言葉で励ましてくれました。二人で力強く祈り、神を讃美して、焦りと恐れが消えた状態で病室に行くことができました。
伯父は話しかけると、目を覚ますのですが、身体の苦痛があり、起こすのが申し訳なくなるような状態でした。それでも意識はまだあるので、短く福音を再度、伝えて「信じるか」と聞きましたが、「わからない」という返答のままでした。息子と手を置いて、救いと体の苦痛がなくなるようにと祈り、病室を後にしました。
その翌日、「危篤」という知らせを受けて、病室に再び息子と向かいますが、少し持ち直していました。まだ大きな声をかけると2往復くらいの会話はできたので、キリストを受け入れるかと聞くと、また「わからない」と言われてしまいました。しかし祈ることは受け入れてくれました。
そして次の最後の面会は全く意識がない状態でしたが、耳元で再度、福音を伝え、手を置いて祈り、息子と共に「イエスがいるから」を讃美して帰りました。その翌日、伯父は息を引き取りました。
私は大好きだった明るい伯母にこそ伝えたかった、福音を伝えられず(伯母が存命中は、私はまだクリスチャンではなかった)、愛し難い伯父には、最後の時に何度も伝えて祈る、という機会をくださった神の不思議を思いました。
ローマ人への手紙10章6節「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない」と書いてあるので、伯父の魂が、どうなったのか私たちには分かりません。けれども、最後まで人間的には愛せなかった伯父に、私が一番大切にしている福音を、話す機会を神がくださったこと、私にはない神の愛を感じて、神に伯父の魂を委ねたという気持ちだけが残りました。
次週は
聖書から「一瞬にして天の国パラダイスへ迎え入れられた人」を分かち合いたいと思います。
こちらもぜひ御覧ください。
👇 過去のシリーズ記事もぜひご覧ください
🔹 ➖証し集①➖家族の地上での歩みを見送り(千葉県J・Tさん)
🔹 ➖証し集②➖「父の病床洗礼」それは神の憐れみ・恵みそして与えられた平安(東京都K・Oさん)
グレースセレモニーは、事前のご相談から、ご依頼主様と同じキリストを信じる者として、共に祈り準備を重ねて参ります。葬儀を通して、召された方の信仰の歩みから、参列者お一人お一人に福音を分かち合い、キリストを紹介する場として、召された方の思いを大切にしつつ、一都三県のキリスト教葬儀を、最大限お手伝いさせて頂ければと願っております。
