➖御国の希望に歩む④➖ キリスト教の葬儀と信仰
「イエス・キリストとともに新しく生きる」
「イースター復活祭を終えて」
ガラテヤ人への手紙2章20節
私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
イースター(復活祭)において私たちはイエス・キリストの復活の意味をリマインドして頂きました。 この復活は私たちにとって大きな希望となりました。
ヨハネの福音書11章25節
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」 と聖書に書いてある通りです。
さらには
コリント人への手紙第二4章14節
「それは、主イエスをよみがえらせた方が、私たちもイエスとともによみかえらせ、あなたがたといっしょに御前に立たせてくださることを知っているからです。」
と神の偉大なる力によるのだ、と聖書に書いてある通りです。
それではイエス・キリストとともに生かされた私たちは、やったラッキーとしてこれまでの様な、罪の中に生きて良いものでしょうか。冒頭のみ言葉にあるように、パウロがガラテヤのクリスチャンに向けて、書いた手紙を解釈し適応していく必要があるのではないでしょうか。
ガラテヤ人への手紙2章20節は、パウロが信仰による新しい生き方を述べた重要な箇所です。 この節は、イエス・キリストとの結びつきによる、霊的変化を強調しています。
「キリストと共に十字架につけられた」という表現は、古い自分(罪深い性質)が、イエス・キリストの死によって終わり、新しい霊的な命が与えられることを示しています。
イエス・キリストが内側で生きているということは、私たちが自分の力ではなく、イエス・キリストの力によって、歩むことを意味します。この「内なるキリスト」は復活の命と結びついています。
現在の生活自体は「肉体において」続いていますが、その基盤は「肉の欲求」ではなく、「神の御子への信仰」によるということです。これは律法や行いではなく、純粋な信仰による義認を強調しています。
私たちクリスチャンが自己中心的な生き方を捨て、イエス・キリスト中心の生活を送るよう招いています。 また自分ではなく、神の恵みによって生きる、という謙虚さと感謝を教えてくれています。
私たちの希望は、「終わりの日にイエス・キリストとともによみがえり、この世にあっては永遠の命を持つ」ことですが 、神の偉大な力により復活させられたイエス・キリストが「死に打ち勝ってくださった」ことによるものです。 この事も次のように、聖書にしっかりと書かれてある通りです。
ヨハネの福音書 5:24
24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ヨハネの手紙第一 5:4-5
4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。 5 世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。
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グレースセレモニーは、事前のご相談から、ご依頼主様と同じキリストを信じる者として、共に祈り準備を重ねて参ります。葬儀を通して、召された方の信仰の歩みから、参列者お一人お一人に福音を分かち合い、キリストを紹介する場として、召された方の思いを大切にしつつ、一都三県でのキリスト教葬儀を、最大限お手伝いさせて頂ければと願っております。
