➖洗礼式がお葬式?➖ キリスト教の葬儀と信仰
古い人がキリストとともに十字架につけられた
クリスチャンの希望
コリント人への手紙第二5章17節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。
私たちクリスチャンは、洗礼式の時に一度お葬式をしています。それは、自分の力で自分中心に歩んでいた古いものを、全てイエス・キリストと共に、十字架の死に渡し葬り去り、これからは神の力で神に助けられて歩みます、と新しい出発を表明する為です。イエスキリストは十字架で死に渡され、黄泉に下り、3日目によみがえり天に昇り、神の右に座して、今も一人ひとりの為に執り成しておられます。その復活の力を頂いて歩むのです。
しかし洗礼を受け、新しく歩み始めても、自我の欲求や悪い思い又困難がなくなる訳ではありません。それを自分の頑張りではなく、神から与えられる助け主、聖霊の力によって私たちの心を変えて頂くのです。この地上にいる限り戦いはあります。そしてその全ての戦いから解放されるのは、この世での歩みを終え天に召される時です。それが二回目のお葬式となります。その時は、全ての痛み、誘惑、恐れから解放され、肉の身体を脱いで、魂は天に引き上げられ、主の御元で新しい身体を着せて頂くのです。それが私たちクリスチャンの希望です。
ローマ人への手紙6章6~11節
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。 キリストは死者の中からよみがえって、もはや死ぬことはなく、死はもはやキリストを支配しないことを、私たちは知っています。 なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。
グレースセレモニーは、事前のご相談から、ご依頼主様と同じキリストを信じる者として、共に祈り準備を重ねて参ります。葬儀を通して、召された方の信仰の歩みから、参列者お一人お一人に福音を分かち合い、キリストを紹介する場として、召された方の思いを大切にしつつ、一都三県でのキリスト教葬儀を、最大限お手伝いさせて頂ければと願っております。
